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鴎座俳句会&松田ひろむの広場

鴎座俳句会&松田ひろむの広場

評論「有馬登良夫追跡」

有馬登良夫追跡 松田ひろむ(2006現代俳句評論賞応募作品)

有馬登良夫(ありまとらお)は現代俳句協会の創立時の会員(いわゆる原始会員)のひとりである。しかも創立時の代表である石田波郷の指名を受けて幹事長代理となり、新宿区西落合の自宅を現代俳句協会の事務所に提供している。
 さらには一九四九年(昭和二十四年)の第一回幹事会では幹事長の座を秋元不死男と争い、投票結果が同数であったため、前期(三月から九月)を秋元不死男、後期(九月から翌三月まで)を有馬登良夫とすることになった。(「現代俳句協会五〇年史」)その後の幹事長には後に会長となった三谷昭が就任している。
 このように秋元不死男―有馬登良夫―三谷昭と並べてみると初期の現代俳句協会で有馬登良夫が占めていた位置が分かる。
 現代俳句協会のホームページから「沿革」部分を引用しておく。
昭和二十二年九月一日 現代俳句協会設立(石田波郷、神田秀夫、西東三鬼を中心として計画)、創立会員三十八名。協会代表に石田波郷就任。
昭和二十三年二月十四日 茅舎賞創設。幹事長に石田波郷、幹事に神田秀夫、孝橋謙二、西島麦南、有馬登良夫、中村草田男、中島斌雄、西東三鬼就任。
昭和二十三年七月二十日 「俳句芸術」第一輯発刊(編集代表・石田波郷)。協会事務所を東京都新宿区西落合、有馬登良夫方に置く。
昭和二十四年一月三〇日 第一回幹事会。幹事長に秋元不死男(前期)、有馬登良夫(後期)就任。
 しかし今日、有馬登良夫の名はまったく消えてしまっている。例えば一九八〇年(昭和五十五年)『現代俳句大辞典』(明治書院)、一九九五年(平成七年)『俳文学大辞典』(角川書店)、さらには最近の二〇〇五年(平成十七年)『現代俳句大事典』(三省堂)にも、有馬登良夫の名を見ることは出来ない。さらに各種の歳時記でも有馬登良夫の句は、私の知る範囲ではいまだ一句も収録されていない。
 現代俳句協会の原始会員は、昭和二十二年発足時は安住敦、有馬登良夫、井本農一、石田波郷、石塚友二、大野林火、加藤楸邨、神田秀夫、川島彷徨子、孝橋謙二、西東三鬼、志摩芳次郎、篠原梵、杉浦正一郎、高屋窓秋、瀧春一、富沢赤黄男、中島斌雄、永田耕衣、中村草田男、中村汀女、西島麦南、橋本多佳子、橋本夢道、日野草城、東京三(秋元不死男)、平原静塔、藤田初巳、松本たかし、三谷昭、八木絵馬、山口誓子、山本健吉、横山白虹、渡辺白泉の三十五名に加入を留保していて昭和二十三年一月に正式に参加した池内友次郎、栗林一石路、石橋辰之助の三十八名である。
 この顔ぶれを見ると、ややなじみの薄い評論家や国文学者を除けば、山口誓子・中村草田男を上限とする当時の若手(五十歳以下)の主力が網羅されていることが分かる。ただ一人有馬登良夫を除いては。
 有馬登良夫に気がついたのは現代俳句協会のホームページに「現代俳句データベース」を構築した際に、原始会員が網羅されていないではないかとの指摘がネット句会の参加者からあったことに始まる。
 当初は安易に句集、選集、各種の辞典類あるいは協会の資料をみれば分かるだろうと考えていたが、まったく有馬登良夫の名を見ることが出来なかった。そこで二〇〇七年の協会の幹事会で問題を提起したのだが、有馬登良夫を知る人はいなかった。わずかに元「暖流」(瀧春一主宰)にいたのではないかとの倉橋羊村副会長の指摘を受けて、私の有馬登良夫追跡が始まった。
「暖流」といえば当時、副幹事長の鈴木石夫氏は「暖流」の編集長も勤めたことがあるのだが、有馬登良夫はわずかに噂を聞いたことがあるだけとのことだった。さらには新興俳句に詳しい細井啓司氏のご教示で松林尚志氏が知っているのではないかというアドバイスを受けた。松林氏に電話をしたところ知っているとのことだった。
そのうえ著書の『瀧春一鑑賞』(沖積舎)をお贈りいただいた。その有馬登良夫に関する部分をまず引用させていただく。
登良夫の文章は「暖流」二十一年七・八月合併号に載せられた「俳句本質の研究―季に就いて」というのが最初で、これは無季を容認する内容であり、春一はこれを「旗艦」から転載したようだ。二十二年一月には登良夫は編集部に加わり、三月には高屋窓秋が加わっている。
(当時、瀧春一宅に下宿していた)私の耳元に、登良夫の大きな声と、あき夫人の「有馬さん」「有馬さん」という声がまだ聞こえてくるからである。そして持前の弁舌で「暖流」の一時期を牛耳ったように思える。春一と登良夫の対談は(二十二年)一月から転載され九月まで続いている。
とある。ついに「有馬登良夫」発見であった。
 「暖流」は「馬酔木」系のいわゆる僚誌、衛星誌で瀧春一を主宰として一九四〇年(昭和十五年)に創刊している。「馬酔木」の僚誌「菱の花」(創刊一九三四年)を改題して創刊したもので、当時としては歴史のある俳誌だった。「馬酔木」系では戦後一九四五年十一月いち早く復刊している。「馬酔木」系の中でも注目される存在だった。
その「暖流」に有馬登良夫が入ったのは一九四六年(昭和二十一年)。前述の松林尚志氏の『瀧春一鑑賞』から引く。
登良夫は「暖流」の表紙を描いていた春一の義弟、池上浩画伯の近くにたまたま住んでいて、それが「暖流」に近付く機縁となったようである。
とある。松林尚志氏は、たまたまというが、実は有馬登良夫は、後に判明することだが、これまでも突然登場し、突然消えるという行動が多い。
 自己を売り出すことにかけては、天才的な才能があったのである。しかしそれは永続きしない。
 有馬登良夫の、その経歴は第三高等学校を経て京都帝国大学経済学部卒。はじめ「ホトトギス」に投句、のち後藤夜半の「蘆火」同人。「蘆火」が夜半の病気のため廃刊後「京大俳句」に入り、その後、日野草城の「旗艦」で活躍したことになっている。どちらかといえば庶民派、叩き上げの瀧春一にとっては、眼のくらむようなエリートであった。そのエリートが颯爽と「暖流」に加わった。当時有馬登良夫、三十五歳。
有馬登良夫は、その年の「暖流」七・八月合併号に「俳句本質の研究―季に就いて」を転載発表。これが「暖流」の無季容認宣言となった。
翌一月には「暖流」編集部に入り、三月には満州(中国)から帰還した高屋窓秋が加わっている。五月号からは有馬登良夫と高屋窓秋は瀧春一とともに別格の同人欄に作品を発表している。もともと「暖流」は「馬酔木」の衛星誌的な存在で「暖流」で学びながらも、多くの会員の眼は「馬酔木」つまり水原秋櫻子に向いていた。そこに突然登場した有馬登良夫と高屋窓秋であった。松林尚志氏の『瀧春一鑑賞』によれば、 
このような庇を貸して母屋をとられかねない異分子の登場に、内部が動揺しないはずはなかった。
はざまにたった春一の苦悩は、八月二十四日付の「再出発に当りて」という同人への通告の文章によく表れている。ここで春一は、無季俳句の認容と十七音基準律を説くと共に「馬酔木」からの自由。結社性の純化、新俳詩運動の強力な展開を述べ、同人制の一時的廃止を通告したのであった。これは実質的には名実共に主宰誌への移行を意味し、それにより同人を外された窓秋、登良夫は自ら去ることになったのである。窓秋は昭和二十三年一月創刊された「天狼」に名を連ねる。思えば登良夫の活躍は一年をそう超える期間ではなかったが、春一の無季容認はむしろ内部に大きな波紋をもたらしたのであった。
 有馬登良夫は三鬼とも親しく、二十二年九月に設立された現代俳句協会の発足時の三十八名の原始会員となっている。協会の事務所は西落合の有馬登良夫方になっており、登良夫は幹事になっているから、協会設立の中心的な役割を果たしたのではないかと思う。春一も会員の一人となっている。登良夫は活動の場を現代俳句協会に移したのである。
という。
井本農一は(現代俳句協会の創立に関係して
断片的には波郷さんがこういったとか、有馬登良夫さんの話とかありますが脈絡があやふやですね。私は傍観者的同伴者であまり熱心な会員ではありませんから・・・。(「現代俳句」平成九年七月号「井本農一氏に聞く五十年」)(傍点筆者)
と書いている。現代俳句協会の創立には必ずといっていいくらい有馬登良夫の名が出てくる。

西東三鬼と有馬登良夫
松林尚志氏は有馬登良夫が「西東三鬼と親しかった」という。戦後のいろいろの俳壇の再編でいつも中心的役割をした西東三鬼がここにも登場した。調べてみると一九八〇年の『西東三鬼読本』(角川書店)の年譜(鈴木六林男編)に、
(西東三鬼は)「昭和二十二年十一月、用紙手配のため度々上京、高屋窓秋、有馬登良夫の協力を得る。(傍点筆者)
とある。その鈴木六林男はいう。
(西東三鬼は)ぼくらの「青天」もタダで譲ってくれというんです。
「青天」を譲ってくれと言ってきた理由としては、戦後で用紙が不足していましたから、新規の雑誌を出すのは許可しない。ただし、発行実績のある雑誌のあとを継いでいくんだったらいいと、有馬(ありま)登(と)良(ら)夫(お)や高屋窓秋などが知恵を貸してくれた。それもあかんようになりかかったので、通産省へ無理に頼み込んだ。有馬登良夫は代議士をやっていたのではないでしょうか。」(二〇〇二年『証言・昭和の俳句(上)』角川書店)
と書いている。(傍点筆者)
さらには一九七九年(昭和五十四年)の松井利彦『昭和俳壇史』(明治書院)三七四ページでは、西東三鬼は昭和二十一年より、山口誓子に雑誌の創刊をすすめていた「当時、俳誌の創刊は紙の統制上法律で禁じられていたので、鈴木六林男・島津亮らの同人誌「青天」を改題創刊することになった。三鬼は急いで書類を作り有馬登良夫・高屋窓秋らの協力をえて当局に提出した。(傍点筆者)とある。いずれも有馬登良夫と高屋窓秋が、西東三鬼の「天狼」創刊のために通産省(当局)に働きかけていることが分かる。しかも鈴木六林男によれば有馬登良夫は代議士(衆議院議員)だったという。この代議士であったかどうかについては、今回、衆参両院で調査したものの議員ではないことが判明している。
 ところが有馬登良夫は「科学主義工業」第一〇巻第七号(一九四六年十二月)の座談会「科学と政治(科学者議員の考へる)」に堂々と登場しているのである。所属は科学技術政策同志会とある。この「科学技術政策同志会」については、現在のところまったく分かっていない。
他の出席者は磯崎貞序(自由党)、及川規(社会党)、鹿島透(協民党)、苫米地義三(進歩党)。その内容は今のところ不明。「科学主義工業」は目次のみがインターネット上で見ることが出来る。
有馬登良夫以外の出席者はみな国会議員であったことを確認している。国会議員でない有馬登良夫がなぜ科学者議員の座談会に出席しているのだろうか。また有馬登良夫は「科学者」であるのか。私の有馬登良夫追跡は始まったばかりである。
 西東三鬼と有馬登良夫については、新宿で酒場「ボルガ」を経営していた高島茂の子息で後継者の高島征夫(ゆきお)が結城音彦の名で、インターネット上に書いている。

  酒場『ぼるが』のこと   結城音彦
 私がはじめてボルガを探して酔ったのは(昭和)二十一年で、(昭和)二十二年には西東三鬼がボルガに現れている。登良夫と窓秋が、「暖流」の発展に尽力してくれた時で、此の頃三鬼も登良夫の家に泊まったことがあった。〈青蚊帳の男や寝ても踊る形〉という句を、自分の子(或は弟)の寝姿だといって披露したことを憶えている。
 結城音彦が高島征夫であるとすると冒頭の「私がはじめてボルガを探して酔ったのは」というのは客の立場ということになり、経営者高島茂の子息としては整合しないが、ここでは不問にしておく。この部分は「ボルガ」の常連であった瀧春一からの聞き書きのようにも思える。
 ここでは西東三鬼と有馬登良夫が「ボルガ」で酔い、有馬登良夫の家に三鬼が泊まったことがあったという事実だけでいい。
「登良夫と窓秋が、「暖流」の発展に尽力してくれた時で」と書かれているが、実は有馬登良夫の論文と瀧春一の無季容認つまりは「馬酔木」を離れたことによって「暖流」の会員激減という結果を招いた。瀧春一は一九四七年(昭和二十二年)の編輯後記で
同人制の廃止と共に当然、登良夫、窓秋両氏は同人から退くこととなったが、両氏の力によって力弱き一結社誌が俳壇の高き雲層の上にまで押し上げられることになった。その友情に深く感謝する。(前記『瀧春一鑑賞』)
という。確かに外部からの寄稿者も増えた。無季容認に刺激された「俊英」「藤田源五郎」や「新しい主張に共鳴して参加した若い人も少なくなかった。鈴木石夫もその一人」と松林尚志氏はいう。しかし登良夫と窓秋が「暖流」にもたらした混乱は大きかった。
 ただし、有馬登良夫と高屋窓秋が通産省に口利きが出来る立場だったことは明らかになった。
 ここまで来ると有馬登良夫はいったい、どんな俳句を作っていたのかが無性に知りたくなった。もちろんその資料はどこにもなかった。
 しかし、その俳句は突然やってきた。それは私が第三書館の『ザ・俳句―十万人歳時記』に収録する作品のために古い俳句年鑑類を探しているときだった。
 古く変色した「俳句年鑑」の中にその名はあった。
「俳句年鑑(昭和二十二年)』(桃蹊書房)
有馬登良夫 本名 同、出身 鹿児島 明治四十四(一九一一)年 師系 虚子・夜半 所属「暖流」 著書「・・・」、日本化学肥料株式会社役員 東京都淀橋区西落合一―二七八
  青草は牛のたべもの牛は居らず
  蜂の巣のありし記憶にふと幼し
  秋炎をまとひて白き犬ゆけり
  法師蝉鳴きちらばりて山なりし
  松笠を蹴りつゝいゆく九月尽
 翌年の『俳句年鑑(昭和二十三年度版)』(桃蹊書房)では、所属が「・・・」に、職業が「・・・」になっている。また住所が「淀橋区」より「新宿区」となっている。(新宿区は昭和二十二年三月十五日に、四谷・牛込・淀橋区が統合したもの。)
  木となりておのが落花を眺めゐる
  颱風去りてつづきを塗ってゐるペンキ屋
  寒に入る音駈けゆきて馬の蹄
 この桃蹊書房は創立時の現代俳句協会とも関係が深く、創立時の協会の雑誌「俳句藝術」の版元となっている。
その第一輯は一九四八年(昭和二十三年)七月十五日発行。編集委員は有馬登良夫、石塚友二、大野林火、加藤楸邨、西東三鬼、高屋窓秋、西島麦南。
その「俳句藝術」(第一輯)を確認することが出来た。第一輯は百六十ページを超える堂々としたもの。先述の「天狼」創刊の用紙配給問題はここではどうなったのだろうか。ここでも有馬登良夫の活躍が思われるが、それは推測に過ぎない。
ともあれ「俳句藝術」の第一輯に有馬登良夫は原始会員安住敦につづいて二番目に二十五句を掲載している。(全三十三氏)
これは前述の「暖流」や『俳句年鑑』に掲載されている既発表の句も含まれている。その全句をあげる。(字体は基本的に新字体に変換)
  颱風(あらし)去つてひらひらひら鶏の羽ばたき
  颱風(あらし)去つて女が起きた朝のバケツ
  颱風(あらし)去つてつづきを塗ってゐるペンキ屋
  木となりておのが落花を眺めゐる
  ひとひらの落花のゆくへ笛が鳴る
  冬薔薇は身のバラ色を滴(たら)したり
  寒雨にびしよびしよ濡れて波の声
  寒の雨止むべく止んで青い湖(うみ)
  枯芝を湖の音階越ゆるのみ
  湖越えてゐる透明な千鳥鳴く
  犬がゆく冷たい影が追つてゆく
  寒に入る音駈けゆきて馬の蹄
  寒に入る声の鴉が田をすれずれ
  寒月のひかり帯なし練馬へゆく
  寒月のひかりの行方町はなく
  麦の芽の五寸夕陽の箭はとまる
  冬月の人家の影の歌もなし
  寒の雨塔立つ果てにある慕情
  野菊咲く磧の景の故(く)郷(に)ならず
  虹の輪を背に百姓の耕せり
  子を負うて虹立つ方へ戻りゆく
  青草は牛のたべもの牛は居らず
  馬の来る足音この村は平和なり
  茜さして暮れゆく雲に似し人か
  麦畑をゆき麦畑をゆき故(く)郷(に)へ帰る  
冒頭の三句は「暖流」一九四七年(昭和二十二年)七月号では、いずれも「颱風(あらし)去りて」だが「去って」と直されている。
「俳句藝術」第二輯は一九四八年(昭和二十三年)十二月二十日発行。ここでも有馬登良夫は十七句を発表。これも既発表のものが多い。
「俳句藝術」は第三輯まで発行されたと思われるが第三輯の現物は現在まで確認されていない。
桃蹊書房の倒産という事態もあって現代俳句協会の活動は低迷期に入ることになる。
桃蹊書房の倒産は一九五〇年(昭和二十五年)五月、『現代俳句協会五〇年史』には「秋元不死男幹事長、有馬登良夫幹事らは(一九四九年から)しばしば同書房を訪れて打開策などをこころみたが、同書房の衰運はどうにもならず、翌年五月に倒産した。資金の面でも同書房との結びつきの上で成立していた協会の仕事は、このため頓挫することとなった。」(四一ページ)とある。
一九五〇年(昭和二十五年)十一月、当時関西に住んでいた西東三鬼の上京を期に現代俳句協会の低迷を打破しようと会員の懇談会が開かれ、暫定運営委員五名を選び再出発をすることとなった。その暫定運営委員は秋元不死男、安住敦、神田秀夫、中島斌雄、加倉井秋を、でこれ以降、有馬登良夫の名は現代俳句協会からは消えるのである。(『現代俳句協会五〇年史』
ただし角川書店の各年度の『俳句年鑑』には、確認できた範囲では一九六一年以降、一九八八年まで「全国俳人住所録」に俳号、所属、住所が掲載されている。ちなみに一九五五年より一九五七年版には掲載されていない。その所属は確認できた最後の二年度を除いていずれも(現俳協)とあり、一九五七年が(無)、一九八八年では所属は記載されていない。この(現俳協)という表記は他の俳人が所属誌を掲載していることと比較して特異で、事実上「無所属」を通していたものと思われる。
俳人、有馬登良夫は表舞台からすっかり消えてしまったのである。
 一九五七年版の記載を転記して置く。
有馬登良夫(無)108東京都港区高輪二―十五―三十一―一〇〇二(四四五―五七四〇)明四四・二・十五 鹿児島生
 ここで始めて生年月日が明らかになった。それまでの年鑑では「明四四」とのみだった。また西落合から高輪に転居したことが分かる。

「経済人」有馬登良夫
有馬登良夫は、なにをしていたのであろうか。
前述の『俳句年鑑(昭和二十二年)』には「日本化学肥料株式会社役員」とある。この日本化学肥料株式会社は、時期が異なる同名の企業があるものの、そのどれであるかは分からない。いずれにせよ化学に関する仕事をしていたことは推測できる。
その手がかりとなり、また有馬登良夫の職歴が分かる資料が手に入った。それは一九六七年(昭和四十二年)刊行の『中野友禮伝』(中野友禮伝記刊行会。代表者は菅原通済)であった。
この中野友禮(とものり)は、日本曹達を一代で築き日曹コンツェルンにまで発展させた「昭和の偉人」であった。
中野友禮は、一八八七年(明治二十年)福島県に生れて一九六五年(昭和四十年)に没している。 
旧会津藩、神尾彦之進の二男で、幼児に中野家の養子になり、一九〇八年(明治四十一年)中等教員養成所卒業後、京都帝国大学理学部化学研究室助手となり、アルカリ電解の研究に従事。中野式食塩電解法を完成し特許を取った。同法の工業化を企画し一九二〇年(大正九年)日本曹達を設立、苛性ソーダと晒粉製造を開始し、その後満州事変後の活況に乗じ技術者としての才能を生かし、金属精錬、アンモニア法ソーダ、特殊鋼、人絹パルプなどの各種部門に多角化を推進、短期間に有機的連関に基づく化学工業を中心とした日曹コンツェルンを創設した。しかし一九四〇年(昭和十五年)頃には経営が悪化し、社長の地位を追われた。戦後製塩事業に着手したが、さしたる成果を挙げなかった。(『日本人名大事典・現代』(平凡社)より一部抜粋)そして晩年は失意のうちに没した。
日曹コンツェルンは中野友禮が一九二〇年日本曹達を設立したことによって生れた新興財閥。十五大財閥の一つ。敗戦後占領軍の財閥解体の指令により解体させられた。現在事業を継承している会社は日本曹達、興人などである。
 その『中野友禮伝』を有馬登良夫は編集委員の一人として刊行している。菅原通済の「序」によれば「本書は孝子中野和雄君が、一切を編集委員の有馬登良夫君にゆだね、有馬君また病中病後であるにかかわらず東奔西走」とある。有馬登良夫が仕切ったことがわかる。
ここから有馬登良夫に関わる部分を引く。
「(事業のコンツェルン化のために)大学新卒の人々を、公募によって採用するようになったのは、ようやく昭和十一年になってからのことである。その第一期、第二期のメンバーには石川政雄、山崎達弥、三善信一、有馬登良夫」(一四四ページ)
「昭和十一年、福井人絹を日本人絹紡績改め」「事務陣に大庭三郎を工場事務長に、有馬登良夫を本社庶務主任とした。」(一六〇ページ)
有馬登良夫は京都帝国大学経済学部を卒業して、同じ京都帝国大学に関わる中野友禮の日本曹達に入社したのである。
有馬登良夫自身は「私が日曹に入社した昭和十二年は」(二九二ページ)と書いているが、これは昭和十一年でないとつじつまが合わない。
その後、九州曹達小名浜工場の建設に「庶務」として関わり、それが昭和十二年八月、日本水素工業となる。この地鎮祭に有馬登良夫は副社長格の小泉俊三(博士)の隣に座っている写真がある。(一六七ページ)
有馬登良夫の顔は鍬入れをする中野友禮の陰になっているが、眼鏡をかけて面長、額がひろくいかにも聡明な印象である。
一九四〇年(昭和十五年)、日本曹達を追われた中野友禮は一九四二年(昭和十七年)政府機関の企画院第一部第一課長の迫水久常の要請で、研究機関を綜合したのちの「調査研究連盟」を作るよう要請される。中野は「政府の機関にただ乗るのはというのでは面白くない」と考え「日曹人絹パルプから有馬登良夫を呼び寄せて、彼を企画院に送り込み、迫水の幕下に加えたのである」(二一〇ページ)。ちなみに迫水は有馬登良夫と同じ鹿児島県出身で、のちに衆議院議員、参議院議員となっている。
ここで有馬登良夫は政府機関の企画院に入った。後年通産省に「顔が効く」というのは、単なるはったりではなかった。
昭和十七年に設立された調査研究連盟は翌昭和十八年十二月に創立一周年を迎えた。そのときの記念写真がある。有馬登良夫は最前列で中野友禮の左、向かって右の端にいる。ここでようやく有馬登良夫の風貌を確認することが出来た。
中野友禮はとりわけ小柄だったが、それと比べて有馬登良夫はそれとあまり変わらず、どちらかといえば小柄であろうか。なんとなく私は「大声」で「弁舌さわやか」で押し出しが強く体格のいい男を想像していたが、それは違っていた。
敗戦後、中野友禮は製塩事業に乗り出す。中野は「かつての日曹コンツェルンの持株会社妙高証券を、急遽有馬登良夫に整理させて、株式」を「売り払い名称も妙高企業と変え」たとある。(二二二ページ)
 しかしこれは一九四九年(昭和二十四年)マッカーサ司令部からの中止命令で挫折。カーリット(爆薬)などの製造を疑われたためという。ここで中野の事業家としての生命は終った。その一九四九年(昭和二十四年)中野は第一回の脳溢血に襲われる。有馬登良夫は「ある時は組織の一員として、またある時は秘書として、最後のころは友人兼相談相手として、絶えることなく交際を持った」(二九三ページ)と言う。中野友禮は一九六五年(昭和四十年)十二月一日に激しい脳溢血に倒れそのまま意識をとりもどすことなく十日逝去した。
 有馬登良夫が俳句から離れていたという時期、一九三八年(昭和十三年)~一九四五年(昭和二十年)彼は日本曹達の中野友禮の下で働いて最後は秘書をしていたことが明らかになった。
 
 有馬宇月「京大時代」、「旗艦」の時代
 さて、有馬登良夫の「暖流」時代は分かった。そこから有馬登良夫の過去へ遡ってみよう。手掛かりは「暖流」の一九四六年(昭和二十一年)七・八月合併号に掲載されたという論文である。しかし、この号は俳句文学館にもなかった。松林尚志氏の前述の書に、滝春一はこれを「旗艦」から転載しているという記載がある。「旗艦」は一九三五年(昭和十年)一月創刊、主宰は日野草城。その「旗艦」一九三五年(昭和十年)十二月号に「無季俳句認容の理論―俳句本質の研究(其の一)」をついに発見することが出来た。筆者は「有馬宇月」(当時二十四歳)となっている。
この宇月が有馬登良夫であることは「暖流」昭和二十二年四月号に一回のみ有馬登良夫(宇月)とあることで確認できる。また、滝春一との対談は、いつも「宇月居」となっていた。
 その無季俳句認容の理論は、難解で何度読み返しても分かりづらい。いかにも京都帝大の優等生の文章である。これを瀧春一が転載した意図も分かりづらい。ここで有馬宇月というとかえって混乱するので、原則として登良夫に統一して書き進める。
 登良夫は、虚子の無季の句
祇王寺の留守の扉や押せば開く
を挙げ、
其の芸術的直感の作用に依ると信じるが故に、直感知と云ふべく、従つて之の成立可能を説明し、理論付けることは学問知と云はるべきである。
と始め、延々と「論」を「展開」する。なおこの時代の旧字体は原則として慣用を除きすべて現行のものに置き換えた。(以下同じ)
 彼の論はあまりにも長大、難解であるので要約する。例えば桜は俳句だけでなく、和歌でも志でも、絵画でも対象とすることが出来る。したがって「桜」を春の表象とすることは出来ない。また俳句は一般芸術と等しく如何なる対象をも表現することが出来る、つまり「季」に関係のないものも詠える。だから「即ち無季俳句の存在が認められるのである。(傍点も登良夫)而してそれは対象そのものゝ価値よりして何等有季俳句と対立するものではなく。同じ側の、而も同じ資格で存在するのである」。時代の進歩は季と関係のないものも増えてくる。「無季俳句が方々に、殊に自然文化と対立する機械文化の中心たる都会に、発生することは理の当然であろう。」という。今日の眼からみれば素朴な無季容認論であろう。
 しかし有馬登良夫はこの論文を瀧春一が転載した翌号の一九四六年(昭和二十一年)九・十月合併号には「「俳句本質の研究」附言」を書いている。そこで彼は、またまた延々と芸術論を述べ、かつて自身が参加した「連作俳句」を否定したあと、
俳句が客観的文学であると云ふ前提に於いては、「季」は当然其の対象の中に這入るべきものにして、「季」のないことは殆んど例外的である。従つて私の「無季俳句の認容」は其の例外を基礎づけたものである。
とする。無季俳句は例外であるとして軌道修正を行なっている。ここにかえって「暖流」に与えた「無季俳句容認」の衝撃の大きさを感じる。
 「旗艦」からさらに遡ろう。有馬登良夫は「京大俳句」出身であるという。私は「京大俳句」復刻版(臨川書店)を繰り返し読んだが有馬登良夫は発見できなかった。「京大俳句」には、有馬姓は二人登場するが、その時点では旧俳号が「宇月」であることは分からなかった。しかし今は有馬宇月が有馬登良夫であることが分かった。その有馬宇月は「京大俳句」一九三三年(昭和九年)五月号に「新会員紹介」で三句掲載。私が眼にする有馬登良夫の最初の句である。
  夜櫻へこの篝(ひ)を通る人の顔   有馬 宇月
  夜櫻の遠きすがたに篝(ひ)は赤く 
  夜櫻は照明燈(ライト)に色を描きけり  
 一句目は与謝野晶子の
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
と変わらない情趣である。
「暖流」時代から遡って有馬登良夫の確認できる最初の句に遭遇したわけだが、その印象は、有馬登良夫はまったく変らなかったと思う。彼の俳句は連作ないしは連作風という特徴を持っている。もう一つは無理なルビ俳句である。篝火を「ひ」と読ませ、「照明燈」を「ライト」とするのは、新傾向―碧梧桐流の邪道というほかはない。
 これが「ホトトギス」投句八年、「蘆火」同人の句であろうか。このとき有馬登良夫は二十三歳だった。
 ここで「京大俳句」を紹介しておく。
一九三三年(昭和八年)一月、平畑静塔・井上白文地・中村三山ら元「京鹿子」若手同人によって創刊された。
 作風の自由と批判の自由を内容とする「自由主義」を掲げた同誌は、やがて当時俳壇におこった新興俳句運動の一拠点となり、理論的、実践的両面において新しい俳句の確立を目指した。
一九三五年以降、学外にも門戸をひろげたことにより西東三鬼・三谷昭・高屋窓秋・渡辺白泉ら有力作家が続々と入会。定型、季、連作、戦争俳句などの問題と正面から取り組み、新興俳句運動の尖鋭的存在だった。
一九三三年、有馬登良夫が入会した七月号を見てみよう。巻頭には顧問の山口誓子十句、五十嵐播水五句、論文は新村出の「俳諧毛吹草」、長谷川素逝「句作者の映画への感想」、日野草城「ラグビー作品綜覧」、井上白文地「新俳誌「青嶺」を披いて」、句集紹介は平畑静塔が「芝不器男句集」取り上げている。「会員集」には平畑静塔、野平椎霞、瀬戸口鹿影、寺野保人、井上白文地、中村三山など十二名。「特別雑詠」は吉岡禅寺洞選。「誌友俳句」は平畑静塔、藤後左右など七名の選。本文だけで五十四ページである。
ちなみに誌友俳句は投句者が会員中より選者を指名するシステムで、ここにも自由を掲げる「京大俳句」の特徴があった。
 「京大俳句」五月号に登場した有馬登良夫の活躍が始まる。
 六月号では「会員集」に四句。七月号同五句。八月号は学生俳句会に二句。「各誌俳句作品研究」座談会に参加。十月号「会員集」に五句。十一月号では最初の論文「続「映画的俳句の研究」前言」を発表(「続」とあるのは、かつて「蘆火」に書いた論文の「続」という意味。)、「会員集」に五句。十二月「続「映画的俳句の研究」、「本年度の諸氏の活動」座談会に参加。
たちまちのうちに論文を書き、座談会に参加して行く。なお京都帝国大学生ならば「京大俳句」の会員になれるかというとそうではない。このとき会員に迎えられたのは、多賀久江路(「天の川」の中堅同人)、有馬宇月、桂樟蹊子の三名で宇月は「蘆火」、樟蹊子は「馬酔木」への投句実績を評価されたものだろう。
華々しい活躍というものの、座談会では自説を曲げず平畑静塔にたしなめられることもあった。平畑静塔は「京大俳句」の発行人で京都帝国大学を卒業後、医学部に勤めていた。その静塔にくってかかることもしばしばだった。
十一月号では「京大学生俳句会欄」を登良夫が書いている。冒頭で「京大俳句会の第二軍―それがこの学生俳句会である。未完成の魅力―それが学生俳句会の生命である。」といい「「題詠の廃止、党派的観念の超脱」を学生俳句会のスローガンとしている。先鋭な文章でいかにも学生らしいといえばいるのだが、「党派的観念の超脱」は、どのようにもとれ、仮想敵国を攻撃しているようにも思える。
翌年一九三四年七月には、原因は不明だが京大学生俳句会が「京大俳句」を離脱、独立。新しい雑誌を出すという事態になる。しかし実際には新しい雑誌は出なかった。わずか二ヶ月後の九月には桂樟蹊子を中心に学生俳句会が復活している。有馬登良夫は復帰しなかった。
「京大俳句」を辞めた有馬登良夫は「旗艦」に入る。この「大活躍」のあと姿を消すパターンが有馬登良夫なのである。
それは「京大俳句」「旗艦」「暖流」現代俳句協会とも同じである。
とすればさらにその前、有馬登良夫は「葦火」(後藤夜半主宰)の同人だったと称している。その「葦火」は後藤夜半が病気のため「葦火」自身を三年で廃刊していることもあって資料を確認することが出来なかった。(俳句文学館でも、ばらばらの三冊のみで、そこに有馬宇月の名を探すことは出来なかった。)これは今後の追跡課題として残しておくしかないだろう。
 有馬登良夫は「京大俳句」を去ったことにより、いわゆる一九四〇年(昭和十五年)の京大俳句事件による弾圧を免れることが出来た。ともいえる。
 私の有馬登良夫追跡は、第一段階が終った。
 では、最初の疑問、有馬登良夫はなぜ俳壇から消えたのか。だれからも有馬登良夫の作品は評価されなかったのかという疑問、その回答が必要だろう。その回答の前に戦後、行動を共にすることの多かった高屋窓秋の有馬登良夫の評価を紹介しておこう。
「秀句遍歴その1」         高屋窓秋
(前略)昔から偉大な芸術作品で、愛から出発しなかつたものは殆どないと云つてよい。それは当然のことながら、僕の愛好する作品にはすべて溢れるやうな愛に満ちてゐる。そしてこれなくては人類生存の意義を否定するものであつて、僕が俳句を受け取るときにも、これは僕の好悪を決定する重要な一つの条件となつてゐるのである。
虹の輪を背に百姓の耕せる  有馬登良夫
 句の意味は説明するまでもない。たゞこの句から受ける特殊な感情は、百姓と村里に対する作者の限りない愛情である。それはあたかもミレーの絵に接するが如くである。人はあるひはこの句を、単なる客観写生の句といふかも知れない。あるひひはまた綺麗すぎると云ふかも知れない。綺麗すぎると云ふ方が本当であらう。そこにこの作者の理想主義的な傾向が見えるのであり、これを更に突込んでゆくと、百姓から御光が射すのである。
作者自身はこの句を古いと云つてゐるが、それはは恐らく深さが足りないと云ふことに解してもよいのであらう。その愛情の世界は平明で、まだ深い信仰にまで到達してゐないのである。
  馬の来る足音この村は平和なり
有馬登良夫
といふ句がある。この句になると遙かに近代性を増し、同時に高いものを具へてゐる。この句は戦争中に作った句ださうであるが、さういふことは別にしても、そのやうな苦悶の時代に生きる近代人の意識がかはつてゐるからである。「馬の来る足音」と「この村は平和なり」といふ二つの観念の衝突は、象徴的表現となつて、作者の透徹した意識の表出となつてゐる。こゝには無駄なものが一切省かれた思索の結果のみが実つてゐる。(後略)(「暖流」一九四七年(昭和二十二年)六月号)
 正直いってこの文を読んで私の高屋窓秋の評価が大きく揺らいだ。もちろん、それはマイナスの意味であった。
  頭の中で白い夏野となっている  高屋窓秋
で知られている『白い夏野』は、一九三六年(昭和十一年)一月に龍星閣から刊行され、その現代詩的な表現が新鮮な感動を呼んだ。いまも私の愛唱句は多い。
山鳩よみればまはりに雪がふる  高屋窓秋
鐘が鳴る蝶きて海ががらんどう  
人ゆきしひとすぢのみち鳥世界
石の家にぼろんごつんと冬が来て
冬の水わが身をながれ細りけり
 その高屋窓秋が手放しで有馬登良夫をほめてはいけない。もっとも高屋窓秋は有馬登良夫に遅れて「暖流」に入り、同人制の廃止とともに「暖流」を去っている。有馬登良夫は同人制廃止後も一九四七年(昭和二十二年)十月号まで作品を見ることが出来る。
 有馬登良夫の作品は無季俳句容認といいながら無季俳句はなく、連作俳句を否定といいながら、連作俳句の欠点といえる連想的な題詠が多い。
 論は立つが、作品の質は高くない。題材にも新鮮さがない。つまり有馬登良夫は消えるべくして消えたと言い切っても良かろう。しかし俳人ならば、特にこれほど多くの句を発見することが出来たならば一句も触れないわけにはゆくまい。
そのなかからいくつかを鑑賞して、私の有馬登良夫に手向けたい。もっとも有馬登良夫は生きているならば九十五歳、俺を勝手に殺すのかという抗議もあるかも知れない。それも期待したい。
  枯芝を湖の音階越ゆるのみ
 この句だけが感覚的な句。湖の音階とはなかなか微妙な表現である。枯芝を超えてゆくその音階の行方はどこだろうか。「越ゆるのみ」が工夫されている表現。伝統的な作風なら「越えにけり」とするところなのだろう。登良夫の一句とすれば、いまはこの句をあげておこう。
  木となりておのが落花を眺めゐる
 擬人法でやや虚無的な思い。戦後の価値観の崩壊を思っているのかもしれない。
  颱風(あらし)去りてつづきを塗っているペンキ屋
 これは寓意の句と読める。台風は戦争とすればペンキ屋は何ごともなかったようにペンキを塗っている。その色は赤だろうか青だろうか。
 有馬登良夫は「俳句は客観的文学」という。しかしこれらの句を読んでも客観表現の良さはない。主観的な意図を汲んでなんとか読める、理解できる作品といえよう。
 有馬登良夫については、高屋窓秋との関係を含め、まだまだ分からないことが多い。今回の追跡も多くの方のご教示をいただいた。それにしても有馬登良夫に言及している鈴木六林男など多くの方が最近亡くなった。もっと早く追跡を始めていればとの思いは強い。
まだまだ私の有馬登良夫は鮮明な像を結ばないが、ともかくもまとめなければ、さらに多くの資料が消えてしまうだろう。拙速との謗りは甘んじて受けねばなるまい。有馬登良夫の像が鮮明になるまで、現代俳句協会の創立の息吹が見えるまで、私の追跡はさらにつづく。
(資料については省略しました)


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